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「地球は人類のゆりかご」-ツィオルコフスキーが見た未来の宇宙開発-

皆さんが宇宙へ行こうと思い立った時、何に乗ろうと思うでしょうか。現実的に宇宙へ行こうという人の多くは、おそらく「ロケット」を思い浮かべるでしょう。現在、ロケットは主流な宇宙への輸送手段であり、これがなければ宇宙開発が成り立たないほど重要な存在です。

そんなロケットが空へ飛び立った、さらにその前に「宇宙ロケット」という概念を提唱し、ロケットを宇宙へ飛ばすために必要な理論を確立させた人物がいます。その人物こそが、ロシアの科学者「コンスタンチン・ツィオルコフスキー」でした。

Credit:NASA

 

悲劇の中で、未来を見つけた青年

ツィオルコフスキーは1857年のロシア帝国で生まれました。彼は中産階級の自由な家庭に生まれ、母親が買ってきた風船のおもちゃや凧で遊ぶのが大好きな少年でしたが、10歳の頃にかかった猩紅熱(しょうこうねつ/小児科領域を中心とした感染症疾患の1つ)の影響により難聴になってしまい、13歳の頃には母親が亡くなるという悲劇が続きます。難聴になったツィオルコフスキーは、他の子どもたちと同じように学校で授業を受けることができず、母親を失ったことによる孤独によって、家に篭りながら多くの時間を読書に費やす少年となりました。しかし、少年は病気については後ろ向きになることはなく、自身の障害を前向きに解釈していたと言います。彼は本を通して数学や物理の世界に足を踏み入れ、幅広い知識を得るようになります。可能性を感じた彼の父親は、さらなる知識の向上を図り、息子をモスクワに送り出すことを決意します。

モスクワに住むようになったツィオルコフスキーは、大きな図書館に通うようになり、そこで転機が訪れます。彼が通っていた図書館の館長であり、当時「ロシア宇宙主義」と呼ばれ、科学によって自然の克服と人類の不死を目指す思想を持つニコライ・フョードロフと、ジュール・ヴェルヌのサイエンスフィクション小説に出会います。当時としては珍しい現実的な科学を取り入れた、冒険と夢に溢れたフィクション小説は、ツィオルコフスキーの好奇心を刺激しました。やがて彼は、館長の思想とヴェルヌの小説に影響を受けてこう思うようになります。

「人類が宇宙へ進出してそこを植民地とすることが、不死で完全な人類へと繋がる」

こうしてツィオルコフスキーは宇宙への旅を目指すようになります。また、言い方は物騒にも聞こえますが、宇宙へ進出し人類が住めるように植民地化するという発想は、現在の宇宙滞在、スペースコロニーの発想に近いものがあります。

 

宇宙開発の探求者

ツィオルコフスキーは、図書館で好物の黒パンを食べながら、数学や物理学、天文学を学び、やがて公立学校教師を志すようになります。そして得意だった数学の試験で満点を取り、無事に公立学校の教師の仕事に就くことができました。

やがて、故郷の学校で数学や物理の教鞭を執るようになると、「傑出した教師」として評判になります。そして教師をする傍ら、宇宙をテーマにしたエッセイや小説を執筆するSF作家としても活動を始めます。さらに、自宅の地下を実験室として改造し、そこで様々な実験を行うことで、充実した日々を過ごすようになります。こうしてツィオルコフスキーは、いくつもの革新的なアイデアを次々と生み出しました。

ツィオルコフスキーは、図書館に通っていた頃から宇宙哲学に関する研究を行い、その付随として「宇宙航行」に関する研究を行っていました。宗教・哲学的な部分から発展した彼の研究は、当時の科学コミュニティーからは隔絶されたところで進んでいたため、全く新しい独自のアイデアがいくつも誕生しました。

1891年には、全金属製の飛行機のアイデアを考案します。当時は、木製で布張りの飛行機が主流だったため、周囲からは「金属が飛ぶはずがない」と最初は受け入れられませんでしたが、現在では当たり前の金属製航空機を考案したことになります。

さらに1895年、新しくパリに建造された空高く伸びるエッフェル塔を見て、赤道上に宇宙の一定高度まで届く塔を建てていけば重心と遠心力が釣り合うという計算を導き出し、現在も検討されている「宇宙エレベーター」の先駆けとなるアイデアを提案しました。

そして、宇宙をロケットで飛ぶという光景が知られていなかった時代にも関わらず、1883年からツィオルコフスキーは宇宙ロケットの可能性について論じ、1897年には、人生の中で最も重大な発見をします。それがこの方程式です。

「m0がロケットの初期総質量、「mT」が時間T経過後の最終的な質量、「w」がロケットの推進剤噴射の速度、「ΔV」はロケットが獲得できる最終的な速度増分になります。この方程式が示すことは、推進剤の噴射速度と、初期と推進剤噴射後の質量比が高いほど最終的なロケットの到達速度が高くなるということです。ロケットの設計に関しては、軽量化と推進剤が重要だということを表す式になります。このロケット方程式は「ツィオルコフスキーの公式」として知られ、現在でも使われています。

この方程式は、重力や空力の影響は考慮されていないため、地球の大気中を飛ぶロケットはもうひと工夫必要ですが、ロケットで宇宙へ行くなんて知られていなかった時代に生まれたこの方程式は、その後の宇宙開発者に多大な影響を与えることになります。

ツィオルコフスキーによる、液体水素と液体酸素を用いたロケットについてのスケッチ。

液体水素・液体酸素を用いたロケットは、アポロ計画で用いられたサターンロケット、日本のH-ⅡAロケットなどで実現されている。

Credit:National Air and Space Museum, Smithsonian Institution

 

未来へ繋がった、ツィオルコフスキーの理論

いくつもの革新的な理論を考案し、数々のアイデアを生み出したツィオルコフスキーですが、ロシア帝国時代には、それらが日の目を見ることはありませんでした。しかし、20世紀に入り第一次世界大戦とロシア内戦を経てソビエト連邦が成立し、宗教観や科学への価値観が変化していくと、ツィオルコフスキーのアイデアも理解されるようになり、科学アカデミーの会員に選ばれます。

ツィオルコフスキーは、ロケットの研究をさらに深めていき、1920年代には推進剤を使い切った段を切り捨てて飛ぶ「ロケットトレイン」を考案します。これは現在、宇宙ロケットには欠かせない「多段式ロケット」と同様のアイデアでした。

ツィオルコフスキーは、晩年まで宇宙航行に思いを馳せ、いくつもの理論を提唱し、人工衛星や宇宙船などの可能性も証明しています。さらに1935年に亡くなるまで、ロケットの打上げ時に加速を助けるロケットブースタについても論じていました。

今回の記事で紹介したツィオルコフスキーの理論は、ロシア語で書かれていたため世界に広がるのは遅かったものの、どれも現実となりうる革新的なものばかりだったため、やがて宇宙を目指す世界中の科学者に注目されることになります。彼に注目した科学者の1人で、ロシア出身のセルゲイ・コロリョフは、ツィオルコフスキーの理論を受け継ぎ、やがて「スプートニク計画」で人類初の人工衛星を飛ばし、「ボストーク計画」によって人類初の有人宇宙飛行を達成させることになります。

1911年、ツィオルコフスキーは知人に出した手紙の中で、このような一文を残しています。

「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごの中にいつまでも留まっていないだろう」

ツィオルコフスキーは人類が宇宙へ行くことを望み、生み出したいくつものアイデアは、こうしている今も、少しずつではありますが人類の宇宙進出の発展につながっています。

ツィオルコフスキーは、故郷の街を歩くとき、まるで世捨て人のような変わった格好で歩いたり、地面に座ったり、木に寄りかかっては何やら考え事をする、一風変わった老人であったと言われています。まるで別の世界から来たかのような、はたまた未来から来たかのような。

ツィオルコフスキーよりも未来人である我々は、彼のアイデアを「今の宇宙開発」に活かし、現実のものとして、いくつも見ることができています。

私たちから見た「未来の宇宙開発」は、どのように進んでいくのでしょうか。時には、ツィオルコフスキーのように、地面に座って、ゆっくりと想像してみるのも良いかもしれません。

 

参考

NASA – Konstantin E. Tsiolkovsky
https://www.nasa.gov/audience/foreducators/rocketry/home/konstantin-tsiolkovsky.html

Britanica – Konstantin Tsiolkovsky
https://www.britannica.com/technology/aviation