栄光の七転八起~「ラムダ」日本初の人工衛星への道~

「【宇宙の町】内之浦町のはじまり 情熱と愛で越えた悪路–(https://spacemedia.jp/entertainment/3673)」の記事では、日本ロケットの父・糸川英夫氏ら日本の宇宙開発者と地元の人々が、内之浦町を”宇宙の町”とするきっかけを書きました。

内之浦町という”宇宙センター”をついに手に入れた日本の宇宙開発者たちですが、日本の宇宙開発の発展はここから始まります。

その重要なターニングポイントが、「人工衛星の打上げ」でした。

今回は日本初の人工衛星を打上げた「L-4S」ロケットの苦悩と成功について追っていきます。

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人工衛星計画の模索

1962年の夏の終わり、東京・六本木の東京大学生産技術研究所では、当時助教授の秋葉鐐二郎 氏ほか学生は、糸川英夫氏から、とある難問をつきつけられていました。

「5年後までに30kgの人工衛星を軌道に載せられるロケットを作り始めるとすれば、どのようなものになるか?」

糸川氏は、鹿児島県・内之浦町(現肝付町)に本格的な宇宙センター「内之浦宇宙空間観測所」を建設する目途がたってから、日本初の人工衛星打ち上げを考えていて、その方法を模索していたのです。

7月ごろ急に糸川氏から出された問題に一同は頭を悩ませつつも、何とか10月ごろには「直径1.2m、球形の固体燃料ロケットを使用した4段式のロケット」という答えを出します。当時は計算機も簡易的なものしかない時代、一つ一つの計算を行うだけでも骨の折れる時代で、それは苦労して出した答えだったと言います。

ここで出たロケットのアイデアはのちの「M(ミュー)ロケット」の元となりますが、そこに至るまでには多くの技術実証を行い、問題を解決していかなければいけません。

そして時は流れ1964年、COSPAR(国際宇宙空間研究委員会)という国際組織の学会でイタリアを訪れていた糸川氏は、頭脳明晰なことで有名だった東京大学の野村民也氏に、ひそかにこう伝えたと言います。

「出かける前に分かったけど、L-3型ロケットに4段目をつけると人工衛星になる。まずはこれでいきましょう」

「L(ラムダ)-3」とは、高度1000km以上に到達することを目的として当時開発されていた3段式の固体燃料ロケットです。このロケットは宇宙へ行って観測を行い地球に落ちてくる「観測ロケット」として開発されましたが、これに4段目の小型ロケットを付け加えれば人工衛星にすればできるということに、糸川氏は気が付いたのです。

 つまり、Mロケットの前段階としてLロケットを試験として挟むことで、より確実な衛星打上げ能力を獲得しようということでした。

 しかし、L-3ロケットは直径0.735cmと、予定されていたMロケットよりも遥かに小さいロケットです。本来人工衛星打上げを目的としていない小さなロケットを改良して、人工衛星打上げをできるようにする……それが困難な道になることは、誰もが予想できることでした。

 しかし、その困難な道の責任者となり「悲劇の設計主任」と呼ばれることになるとは、野村氏本人はまだ知りませんでした。

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驚異の無誘導方式

糸川氏らのアイデアによって始まった、L-3ロケットを発展させた人工衛星打上げ計画は「L-4S」と名づけられ、早々に計画が進められました。

L-4Sロケットは四段式の固体燃料ロケットで、最後の四段目にはチタニウム合金製のカバーの中に電波送信機や温度計、電池といった必要最低限の機器が搭載されている「人工衛星」がくっついていました。

このL-4Sロケットは、現在から見ても驚くべき技術が多く詰まっています。

L-4Sなど当時の日本のロケットに用いられていた燃料は「固体燃料」でした。現在人工衛星打上げのメインとして用いられているのは「液体燃料」です。液体燃料は弁による調節などでエンジンの燃焼をコントロールすることができますが、この固体燃料はロケット花火と一緒で一度火をつけたら止めることはできません。

また、人工衛星を打上げるにはロケットの姿勢を「制御」し、正確な軌道に「誘導」して所定の経路(「軌道」)に投入しなければなりません。

現在のロケットはセンサとコンピュータで姿勢を把握し、誘導もプログラムやレーダーで行えますが、初めての人工衛星打上げを行う当時の日本にそのような手段はありませんでした。

誘導装置の技術事態は研究されていたのですが、当時はまだミサイル転用の恐れがあり政治的に難しかったこと、そして未経験の技術を最低限に抑えることが理由となり、独自のやり方を模索する必要がありました。

そこで生み出されたのが「無誘導重力ターン方式」です。

L-4Sロケットは以下のような手順で動きます。

  • 1.打上げた後の地球大気内は第一段目の尾翼で姿勢制御
  • 2.第一段目を切り離した後の第二段目は尾翼とスピンモーターで姿勢制御。 (スピンモーター:機体についた機体を回転させるモーターを用いて、”こま”と同じ原理で姿勢を安定させる)
  • 3.第二段目を切り離した後の第三段目もスピンモーターで姿勢安定
  • 4.第三段目を切り離した後、人工衛星となる第4段目で、回転向きの逆側に噴射して機体の回転を止めるデスピンモーターで回転を止める。この時点で人工衛星になるために必要な高度に到達し、地球上で高い放物線を描くような軌道になる。
  • 5.第四段目のみにある姿勢制御装置で機体を水平にする。 (人工衛星になるには、水平方向にも速度を稼ぐ必要がある。)
  • 6.再びスピンモーターで姿勢を安定させ、軌道の放物線の頂点でエンジンを点火する。

 すると放物線の軌道が徐々に開いていき、最終的に地球を周る円(人工衛星軌道)になる。

このように、第四段目以外は「尾翼」と「スピンモーター」のみで姿勢制御を、そしてロケットの「誘導」に関してはまったく行わないという驚くべき方法でした。

打上げた後は地上から一切操作ができないというシステムだったのです。

ロケットの各段の切り離し、エンジンやスピンモーターの点火は、なんと”導火線”で行われていました。つまり、四段目以外の各段メインエンジン・各スピンモーターに繋がったすべての導火線を打上げの瞬間に一斉に点火し、すべて時限式で動作するということです。

つまり、精密な操作が必要な四段目以外は、ほとんど巨大なロケット花火のような構造だったのです。

誘導制御装置を封じられた中で生み出された、誘導を行わないこの画期的な「無誘導重力ターン方式」は、のちのMロケットの中盤まで用いられることになります。

そしてその最初となるL-4Sロケットの打上げは、日本宇宙開発の大きな試練となるのでした。

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国立科学博物館に展示される、L-4Sロケットのとそのランチャ(発射台)
(Credit:Wikimedia commons – momotarou2012

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悲劇の連続、5度の成果

L-4Sロケットの設計主任となったのは、糸川氏が声をかけた野村氏でした。

1966年9月26日、ついにL-4Sロケット一号機が打上げられます。しかし、スピンモーターが正常に作動せず、打上げ20分後には電波受信範囲内から姿を消しました。

二度目は早くもおよそ3か月後の1966年12月20日に打上げられます。しかし、こちらもスピンモーターに異常をきたし、最後の四段目が点火せずに終わりました。

1967年4月13日に行われた続く三度目は、二度目までの反省もありスピンモーターの制御は上手くいきました。しかし三段目のメインエンジン点火に失敗してしまいます。

1969年9月3日にはL-4Tと呼ばれる、四段目に固体燃料をフルに詰めない試験機が打上げられます。この時には第三段目が勢いあまって第四段目に衝突するというトラブルが起きますが、影響は少なく正常な実験に試行します。

残念ながら試験機だったために人工衛星にはならず、野村氏ら開発チームは嬉しさ半分、固体燃料を詰めていたら日本初の人工衛星になっていた悔しさ半分といった具合でした。

そしてその成功をバネに1969年9月22日にはL-4S四号機が打上げられますが、L-4Tと同じでエンジン燃焼後の残った勢い(残留推力)によって第三段目が第四段目に衝突。今度は深刻なものとなり、四号機は失敗に終わりました。

野村氏はこの失敗を深刻に受け止め、三段目に減速用の小型モーター(レトロモーター)を追加することで対処します。

このように、L-4Sロケットは度重なる失敗に見舞われ、開発は困難を極めました。

L-4Sロケットのような無誘導重力ターン方式は、スピンモーターなど動かさなければいけない段階が多く、その分だけ失敗の原因となる箇所が多かったのです。

L-4Sロケットの失敗が続くと、メディアにも大々的に取り上げられて世間の風当たりも徐々に強くなっていきます。

設計主任の野村氏の手記には、このように書かれていました。

「この時の精神的打撃は、流石に大きかった。(中略)それやこれやで暫くは胸がつかえ、食事もろくに喉を通らないわが生涯最悪の日々であった ……。」

この時には取材関係のトラブルやほかの開発者からの批判もあり、打ちひしがれる毎日が続いたと言います。

しかし、野村氏ら開発チームはそれでも諦めず、一つ一つの失敗と向き合い、改善していくことで、L-4Sを徐々に良いロケットへと生まれ変わらせていきました。

彼らにとって人工衛星軌道まで届かない5回の打上げは「失敗」であると同時に「成果」でもあったのです。

そして1970年2月11日、悲劇から抜け出す、栄光の時が訪れます。

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栄光の「おおすみ」

1970年2月11日。

L-4Sロケット五号機は、鋭い音と噴煙を上げながら打ち上げられました。

今までさんざん苦しめられた第一段、第二弾のスピンモーターも正常に作動し、第三段目で想定していた位置よりもやや低めの軌道に入りますが姿勢制御系の動作は完璧でした。

最終段である第四段目を切り離して100秒後、L-4Sで唯一の操作である第四段目点火コマンドを送ります。このコマンドによって点火したエンジンが燃焼終了した時点で、L-4Sの四段目は人工衛星となりますが、地上からはこの時点でそれを直接確認することはできません。

確認するには、地球を一周して元の位置にもどってきた時に送られてくる電波を受信する必要があります。

そしてしばらく経った後、「日本初の人工衛星」の電波が、内之浦に届いたのでした。

日本初の人工衛星打上げは、直径0.735m、総質量9.4tと、人工衛星打上げ用としては当時最小のロケットで達成されたのです。

打上げ後、内之浦は晴天の極みで青空が広がり、応援してきた内之浦の人々からはたくさんの笑顔がこぼれていました。

そしてその中で、L-4S開発主要メンバーの玉木章夫氏はこう発言しました。

「人工衛星の名前は、打上げ地に因んで『おおすみ』とします」

打上げ日の”澄”み渡る空にぴったりであり、そして地元の人々が寄り添い応援してくれた内之浦がある”大隅”半島から名前がつけられました。

こうして生まれた人工衛星「おおすみ」は、2003年8月2日に大気圏に再突入して消滅するまで、宇宙にあり続けました。

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credit:肝付町観光協会
肝付町の内之浦惑星ロード ジュピターブリッジにある人工衛星「おおすみ」のモニュメント

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日本初の人工衛星打上げ。

それは簡単な道ではありませんでしたが、日本の宇宙開発において欠かすことはできない出来事であり、そして試練でした。

L-4SロケットはMロケットへと繋がり、日本は本格的な人工衛星打上げが可能になります。

人工衛星「おおすみ」は特殊な科学観測機器は搭載していない試験機的な存在ですが、おおすみで得た人工衛星開発と運用のノウハウもその後の科学衛星運用に欠かせないものとなっています。

これらの成功はすべて、苦い失敗とそこから得た成果があったからこそ得られたものでした。

設計主任の野村氏は、L-4Sロケットの開発についてこう総括しています。

「(L-4Sは)単に初の人工衛星を産んだということではなく、多くの貴重な知識と経験を残した実験として記憶されるべきものと思う」

日本初の人工衛星「おおすみ」とL-4Sロケットは、私たちに成功に必要な尊い失敗があることを教えてくれているのかもしれません。

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<参考文献>
ISAS 日本の宇宙開発の歴史
https://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/index.shtml

宇宙科学研究所 – 打上げ用ロケット L-4S
https://www.isas.jaxa.jp/missions/launch_vehicles/l-4s-5.html

ISASニュース2008年6月号 特集 野村民也先生 追悼
https://www.isas.jaxa.jp/ISASnews/No.327/ISASnews327.html