【宇宙の町】内之浦町のはじまり -情熱と愛で越えた悪路-

鹿児島県本土の東南、大隅半島の東にある町、肝付町。

その中でも肝付町の海に面し合併する前まで「内之浦町」と呼ばれていた地域には2022年時点で日本に二か所あるJAXAのロケット発射場があり、主にJAXAの一部であるISAS(宇宙科学研究所)の固体燃料ロケット打上げに用いられています。ここは、かつて日本で初めての人工衛星が打上げられた「宇宙の町」として有名な場所です。

内之浦にあるロケット発射場は「内之浦宇宙空間観測所」と言い、数々のロケットが今まで打上げられてきましたが、なぜここにロケット発射場が建てられ、打上げが行われるようになったのでしょうか。

今回は、そんな「宇宙の町」、内之浦の誕生について追っていきます。

衛星ヶ丘から望む、内之浦宇宙空間観測所
(Credit:JAXA)

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ロケット発射場を求めて

全ての始まりは1954年、東京大学の教授で日本で宇宙を飛ぶロケット開発構想を掲げた「糸川英夫」氏が、東京大学生産技術研究所内に「AVSA(Avionics and Supersonic dynamics)班」を設立したところからでした。

アメリカやソ連が有人宇宙飛行計画を進める中、なんとか欧米に追いつこうと糸川氏ら研究メンバーは全長23cmほどの「ペンシルロケット」で実験を重ねるなど、宇宙ロケットに向けた技術実証を進めていきます。

「ペンシルロケット」の実験については、「黎明ロケット-宇宙を目指した小さなロケットたち-(https://spacemedia.jp/entertainment/3199)」の記事中でまとめられています。

糸川氏らにはペンシルロケットからロケットを徐々に大型化していき最終的に大きな宇宙ロケットにたどり着こうという計画がありました。その計画通り、全長20cmのペンシルロケットから全長1.2mほどのベビーロケット、更に大型化したカッパロケットへと進んでいき、K(カッパ)-6ロケットの頃には高層大気観測も可能になり、K-8になるとついに高度180km越えを達成しました。

必要に応じて実験場所も変えていき、ペンシルロケットの発射実験を行った1955年には東京都国分寺、その後千葉県千葉市、そして本格的にロケットを空に向けて打上げる頃には秋田県道川海岸と実験場を移動しています。

そんな中、打上げるロケットがいよいよ宇宙に近づいていくと、ある問題が浮上します。秋田県の道川海岸は日本海側にあり、今後本格的に人工衛星を宇宙に送り出すのには太平洋側への打上げが望ましいうえに、日本海は狭すぎたのです。

糸川氏らは太平洋側への宇宙センター設立の必要性を強く感じ、様々な条件をまとめました。

・人の出入りが少ない場所であること
・輸送用の道路を作ることができること
・海上の航路ができるだけ少ない事
・漁船の出入りが少ないこと

等が挙げられ、特にロケット打上げ中はその周辺海域の船の出入りが規制されてしまうため、漁業との上手い付き合いは宇宙開発において重要な課題でした。

糸川氏らはこの条件から絞りだした地域を渡り歩きます。北は北海道の襟裳岬から南は種子島まで、いくつもの場所を巡りました。

種子島などは良いが、他の地域は漁船の出入りが多い、空き地が少ない等の問題があり候補から外れました。ただ調べていくうちに、漁船の出入りは南に行くにつれて少なくなる傾向にあると気づき、候補も徐々に南側に絞られていきます。

そして1960年10月24日、糸川氏らは鹿児島県に調査に訪れます。

その対象地域が、大隅半島にある内之浦でした。

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悪路を越えて

糸川氏が鹿屋からタクシーで内之浦へ行こうとしますが、タクシーの運転手は「あそこは道が悪くて遠いから行きたくない」と言いました。何度かのやり取りの末しびれを切らした糸川氏は「私が運転するから、あなたは助手席に」と、タクシー運転手を助手席に置いて内之浦まで向かいます。

いざ着くと、たしかに当時の内之浦はタクシー運転手の言葉に頷かざるを得ない場所でした。

当時の報告書によれば、たしかに人は少ないが、平地が少なく、大工事をしない限りは発射場の確保などはできないと書かれています。更に当時の町長である久木氏の回想では、曲がりくねった水田、水も通わぬ水路、ミミズが這い出し泥水の出る水道、舗装の一か所もない道路、朽ち果てた診療所と、当時問題が山積みだった内之浦の様子が語られています。

町長や婦人会の人々に出迎えられ旅館に案内された糸川氏は、早速ロケット発射場を建てたいから良い場所はないかと切りだし、町長らを唖然とさせます。

「ここにロケット発射場を作れそうな場所などない」と町長の久木氏は答えますが、糸川氏は町長を連れて諦めずに大隅半島を巡ることにしました。たしかに山だらけで宇宙センターを作る場所などとてもなさそうです。

糸川氏は「流石に無理だったか」と想いながら、帰路に尿意をもよおし峠で車を降ります。そこは広大な太平洋に面していて、平地は全くない上に背後には岩石が切り立っていました。

しかし、太平洋を眺める中、

「ん、待てよ」

と糸川氏は閃きます。

「あの山を削って宇宙センターを建てよう」

そう言って糸川氏は、一緒についてきた研究者に構想を語り始めました。その研究者の方は「ついに糸川先生がおかしくなってしまった」と思いながら、ぼーっとその話を聞いていたと言います。

内之浦宇宙センターの建設予定地
Credit:JAXA

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少しずつの前進と、おはぎ

糸川氏はすぐに内之浦での宇宙センター建設を町長の久木氏と鹿児島県に願い出て了承を得ます。当初は唖然としていた久木氏ですが、発射場の誘致によって問題が山積みの内之浦を変えられるのではという希望を胸に了承したと言います。

糸川氏の「場所がないなら山を切り開けば良い」という発想の下、1961年2月に現地測量が行われましたが、測量の時点で30分ごとに10mほどしか進めない内之浦の悪路に、調査隊は早速心が折れかけていました。

そんな時、内之浦の婦人会の人々が手に沢山のおはぎを抱えて訪れ、「先生方、頑張ってくださいね」の言葉と共にそのおはぎを差し出しました。当時調査に訪れていた研究者ら調査隊はその言葉と笑顔に心を温められ、絶対にここを宇宙センターにすると決意しました。

1961年4月には重機を入れての工事が始められ、その中でも婦人会ら地元の人々は弁当づくりを手伝い、時にはスコップを持って宇宙センターの建設に貢献しました。こうした地元の人々の協力と明るい笑顔が、当時陸の孤島とさえ表現されていた内之浦を「宇宙の町」に生まれ変わらせていきました。

草を刈り整地し山を削り、1963年12月9日、ついに日本初の本格的な宇宙センター「内之浦宇宙空間観測所」が開所します。

町は綺麗に彩られ、内之浦小学校の子どもたちが日の丸の小旗を振って「宇宙の町」内之浦の誕生を祝っていました。

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日本の「KSC」の誕生

開所からすぐの1963年12月11日、内之浦宇宙空間観測所が開所してから初めてのロケットが打上げられました。

そのロケットは、カッパロケットの次のステップである「L(ラムダ)-2」ロケット。後にこの発展型の「L-4S」ロケットが内之浦から日本で初めての人工衛星を宇宙に送り出すことになります。

内之浦宇宙空間観測所を語るとき、とあるジョークのようなものが囁かれることがあります。それは内之浦こそが本当の「KSC」だというものです。「KSC」とは、現在はアメリカ・フロリダ州の「ケネディ宇宙センター(Kennedy Space Center)」のことを主に指しますが、このケネディ宇宙センターという命名の直前に内之浦の宇宙センター(「鹿児島宇宙センター(Kagoshima Space Center)」)が設立されたため、内之浦が元祖KSCだと名乗っていたのです。

ケネディ宇宙センターはアポロ計画における月面有人着陸の出発点となる等その功績は大きいですが、内之浦も負けてはいません。日本初の人工衛星に始まり、小惑星から初めて試料を持ち帰った探査機「はやぶさ」等、名だたる日本の探査機や科学衛星を宇宙に送り出してきました。

そして今も、内之浦は世界に負けない日本の代表的な宇宙センターの一つとして、毎年ロケットが打上げられています。

それらは糸川氏の情熱、研究者たちの努力、そして内之浦に住む地元の人々の応援と協力がなければ不可能だった、悪路を越えた末の成果だったのです。

内之浦宇宙空間観測所に建立された糸川英夫先生の銅像。右側に見えるのは「おおすみ」の実物大モニュメント。
内之浦宇宙空間観測所内に建つ、糸川英夫博士の銅像
Credit: Jaxa

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<参考文献>

ISAS 日本の宇宙開発の歴史
https://www.isas.jaxa.jp/j/japan_s_history/index.shtml

内之浦宇宙空間観測所の50年 1962-2012
https://www.isas.jaxa.jp/j/special/2013/uchinoura50/data/01.pdf