2021年6月、文部科学省は往還飛行型宇宙輸送システムの開発方針を示しました。同システムは、宇宙と地上を何度も往復することを可能にします。2040年代前半の実現を目標とし、宇宙旅行や二地点間高速輸送等の市場確保を目指しています⑴。2017年にはSpaceX社も宇宙経由の高速輸送計画を発表しており⑵、近年、宇宙輸送機への注目度が高まっています。しかし、このような宇宙輸送機計画は最近構想されたものではなく、むしろ日本宇宙開発の原点と言えるものです。今回は、その「原点」をご紹介します。
戦前、日本は零戦(ぜろせん)をはじめとする、高性能な航空機を開発する技術を持っていました。しかし、敗戦により連合国による統治が始まると、航空機の研究は禁止され、航空機の研究者たちは、航空機に直接的に関わらない研究をするしかありませんでした。1952年、日本が独立を回復し、航空機研究が解禁されたとき、世界の目はジェット機に向けられていました。多くの研究者たちがジェット機の研究を始める中、別の考えを抱く研究者がいました。それが、東京大学生産技術研究所の糸川英夫氏、のちに「日本ロケット開発の父」と呼ばれる人物です。1953年に半年間アメリカで過ごした糸川氏は、研究所所長に、「アメリカはすでにロケットの時代に入りつつあります。我々もロケット機をやりましょう。ジェット機と違って空気のない所でも安定して飛べるロケットで、宇宙を自由に飛び回りましょう」と進言しました。こうして、日本のロケット開発はスタートしたのです。
日本初のロケット「ペンシルロケット」 Credit: ISAS
講演会を通して富士精密工業株式会社(現IHIエアロスペース株式会社)の協力を得ることに成功した糸川氏は、研究所内にAVSA(航空電子工学と超音速空気力学)研究班を組織し、本格的なロケット開発に乗り出しました。用意できた固体燃料は直径9.5mm、全長123mmというとても小さなものでした。がっかりするメンバーをよそに、糸川氏は「いいじゃないですか」と開発をすすめ、全長23cmの「ペンシルロケット」を開発しました⑶。1955年4月12日から23日に東京都国分寺で行われた試射実験では29機を打ち上げ、その全機から貴重なデータを取得しました⑷。このデータを礎として日本のロケット開発は進展し、現在の地位を確立しています。
国分寺市にある記念碑 Credit: ISAS
今回ご紹介したように、60年以上も前に、宇宙輸送機計画を構想し、ロケット開発の礎を築いた人々がいました。半世紀越しに日本がその志を実現させることができるのか注目です。
⑴「革新的将来宇宙輸送システム実現に向けたロードマップ検討会 中間取りまとめ」文部科学省
⑵「 Elon Musk’s Wild Idea for City-to-City Rockets Just Might Work」MACH
⑶「AVSAと糸川構想」宇宙科学研究所
⑷「国分寺のペンシル」宇宙科学研究所
SPACEMedia編集部